Search


Category Archives

2007年10月22日

ヴェネツィア歴史の概要

少し前から注目していましたヴェネツィア歴史。
魅力的な街です。


ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯である。

元々はただの湿地帯だったが、6世紀頃に東方からゲルマン系諸族やフン族がイタリア本土のヴェネト地方に侵入してきたため、住民がこの湿地帯へと避難してくることから歴史が始まる。この時避難してきた先が現在の「トルッチェロ島」である。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にする、という法を作ったり、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜く、など、干潟を守り、かつ、有効に利用していた。

アドリア海沿岸地域は元々東ローマ帝国の支配下にあるため、ヴェネツィアも同じように支配されていたが、697年、初代総督を選出して独自の共和制統治が始まる。

9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルッチェロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。

810年に東ローマ帝国とフランク王国との間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれた。

このころ、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレキサンドリアにあり、イスラム教徒に奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。

10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。ジェノヴァなどの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。

11世紀に、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償としてビザンティン内での貿易特権を得た。その後の十字軍遠征と、それに伴うアジアとの貿易との拡大によって、ヴェネツィアは勢力を拡大した。

1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれた。東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、おなじ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。

15世紀になるとオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、勢力にもかげりが見えてきた。1538年におけるプレヴェザの海戦で、ほぼオスマン帝国は地中海の制海権をおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。その上、大砲の登場により干潟に住むメリットが無くなってしまった。更に、貿易の対象がアジアに移ったことや、アメリカ大陸や日本の発見により、貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り(大航海時代)、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下していった。これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処した。

1797年、ヴェネツィアはナポレオン・ボナパルトに侵略され、1805年にナポレオン支配下のイタリア王国に帰属、1815年にはオーストリアの支配下(ロンバルド・ヴェネト王国)に置かれるようになった。オーストリアは、港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。1848年に共和国は一時復活したが1849年にオーストリアの攻撃により降伏した。1866年に普墺戦争がはじまると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。

1987年、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された
引用:ウィキペディア(Wikipedia)

Recent Entries

  1. ヴェネツィア歴史の概要